今も悔やむ、卒業生の「最後の授業が入試対策で寂しかった」
生徒たちの成長に応じて、どんな教材を選び、何を生徒に提示していくかについては、いつも試行錯誤しています。最初はみな素直なので、内容がおもしろければそれだけで食いついてきますが、成長と共に歯ごたえのあるものを求めてくる。
「少し苦労するけれど、がんばって読んだらおもしろかった」「充実感があって、読後『オレにはない視点だった』と思えた」といったものを提示しなくてはなりません。取り組み甲斐のある教材でなければ、彼らはすかさず「これ簡単すぎませんか?」と言ってくるし、教材の中身にも注文が多く「先生、この話の展開はありきたりだから流れがわかっちゃってつまらないです」と読むのをやめてしまう。

どんな教材を選び何を提示するかは、いつも試行錯誤しています。生徒たちは、成長と共に歯ごたえのあるものを求めてきます。
だから、週一度の教室でのやりとりや、定期テストのときに生徒に書いてもらうちょっとしたコメントから、彼らが何を求めているか、どこに躓いているのかをキャッチし、細かく修正して教材に反映させることをいつもやり続けています。
僕の授業は教材の文章をしっかり読んでそれを深めていくということが基本なので、やはり決め手になるのは教材。教材の選定は授業の要です。だから生徒をよく見て、丁寧にやっていかなければ。
教材選びという意味で、実は非常に心残りに思っていることがあります。ある年の高校3年への最終授業として、東大の入試問題の解説を行いました。いろいろな状況からそれがよいだろうと判断してそうしたのですが、卒業生のアンケートに「最後の授業が入試対策だったのが寂しかった。宮先生が好きな文章を紐解いて解説してもらいたかった」と。授業中積極的に発言し、解答だけでなくつっこんでもくれて、教室での読みを深めてくれた生徒の1人でした。こういう希望をもっていたのにこたえてあげられなかった。
この感想をもらって以来、最後の授業への生徒の期待にこたえるべく、次の高校3年を教えるときの最後の授業で何を伝えようかと今から考えています。
原典を与えても生徒は吸収しようする、開成という土壌の力
開成に着任して今年で16年目になりますが、働く環境としては非常に恵まれていると思います。
前述したように、開成では漢文は必修科目。中学2年から高校2年までは週1回、高校3年では週2回、全員が漢文の授業を受けています。そのため漢文の専任教員が3人もいる。これはかなり珍しいことだといえると思います。
開成には学校全体で、漢文を大切なものだと認識している雰囲気があります。高校によっては、生徒に対して「漢文は後回しでいいから、まずは英語やれ数学やれ」みたいな指導をすることも少なくないと思うのですが、ここでは聞いたことがありません。「漢文は選択科目にすべきでは?」と言った意見もない。むしろ、数学の先生が授業中に「漢文をきちんとやっておけよ」と諭してくれるなど、他教科と他教科教員のやっていることに対するリスペクトが非常に強いのです。
こういうリスペクトがあると、それは生徒にも伝わりますよね。また、この学校では、英語でも数学でも理科でも本物をちゃんと見せるということをとても大切にしています。だから、漢文でパッと原典を与えたときに、「これが読めたらすごいよね」という空気を生徒たちが感じ取れる。この土壌が本当に大きい。開成という場所の持つ力ってこういうところにあるのだと思います。
開成は学校全体で、漢文を大切なものだと認識しています。それは生徒にも伝わり、原典を与えても「これが読めたらすごいよね」と受け入れてくる。
漢文は不要と言われても「君がおもしろいと思う授業をする」
一方で、前述しましたが、生徒たちから「中国の古典なんてやる意味あるんですか?」と問われることは珍しいことではありません。
僕はおもしろさをちゃんと伝えてあげられる授業が良い授業だと思っているので、「意味」を問うてきた子にも「おもしろさ」で押していきます。「文法だって句法だってわかればおもしろいよね。これ読めると、こんな世界観に触れられるんだよ。この世界見てみたくないの?」みたいな。
漢文で描かれる世界って、時代も違うし国も違うからギリギリ許されるけれど、今やったらだいたいハラスメントだし、コンプライアンス違反なんです。ある程度までの不謹慎さは魅力でもありますよね。そんな話をしたり、読ませたりしていくうちに、なんだおもしろいじゃんということになります。
「先生の授業はとっても楽しいです。でも、必要がないから僕はやりません」と言ってくる子もいます。卒業生へのアンケートにも「おもしろいけど必要性を感じない」という回答が必ずある。
直接言ってくる子には「自分がやるかやらないか、テストでがんばるかがんばらないかは、君が決めることだけれど、僕は君におもしろいと思ってもらえる授業をします」とこたえます。
「必要性を感じない」と卒業していく生徒には、「必要があるかどうかは今の君にわかることではないよ」と言います。で、「でも、60歳になったらきっとわかるよ」と。
将来のリーダーには欠かせない教養であるとか、漢字文化圏の知的アーカイブにアクセスするには、漢文を読むスキルと漢文に描かれた世界を理解する素養が必要であるとか。必要性は語れるのですが、それは押しつけるものではないと思うんです。
漢文は不要と言われても「君がおもしろいと思う授業をする」とこたえる。必要性は語れるのですが、それは押しつけるものではないと思うんです。




